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自殺しても「御咎め」なし。ただし

過去に自殺によって死を迎えた記憶を持つ
鈴木崩残氏の体験談の掲載です/無明庵掲示板より
(部分引用不可のため全文掲載・主旨部分に色づけしてあります)
↓↓↓↓↓

自殺しても
「御咎め」なしだった
その経験者の私が語る


●多くの人々が、何らかの変化を自分に欲しいと思いつつも、
結果として、退屈に、同じところをぐるぐると回ってしまう原因というものがある。
一言にいえば、それは「無知」と「落ち着きがない」ことに由来する。

●たとえば、意識が水平ではなく垂直方向に移動することは、
エレベーターの中にいる状態に喩えられる。
エレベーターの内部は狭く、またそこには外部の階との接点はない。

このように変化の最中、あるいは移動の最中というものは、
ほとんどの場合において、原則として、知覚物は極端に減る。
従って、そこでなすことは、単に移動が終わるまで「待つ」ということ。

●ところが、多くの人達が、せっかくエレベーターで移動している
その最中に、せっかく垂直に10階ほど移動できたチャンスを台無しに
してしまい、わずか1階か2階上の階層で止まってしまう原因がある。
それが「あわてる」という悪癖である。

何に対して慌ててしまうのかといえば、
それは、単なる固定観念に由来する。

たとえば、何かが完全に飽和して、
ひとつ課題なり、物事の経験が飽きるまで成熟し、それに対する
関心が失われるとき、人はある程度は意識的に、
自分の中で、ひとくぎり何かが終わったということぐらいは認識できる。

ところが、移動というものに対して、次のような固定観念がある。
たとえば、我々が移動するためには、
あらかじめ、移動先が決められなければならない、といった
固定観念である。

●たとえば、地上的な生活が別のものに移動するときには、
地上的な次元の印象が薄れる代りに、
移動先の何かが立ち現れてくるべきだといった、勝手な固定観念である。

●つまり人というのは、
保証つきの移動というものに依存する。
また、何かが消えるときには、別の何かが既に現れてくるべきだ
という期待によって、移動できる範囲を自分で制限してしまっている。

たとえば、あなたが現実問題として引越しをするというときには、
行く先の契約をしておいてから、
それから、荷造りをして移動するという習慣的な思考がある。

だから、たとえば、現在の肉体を捨てて別のところに生まれるといった
話を耳にしても、
現在の肉体による生活への関心が衰退する分、
その分、移動先の何かの情報が自分に必要だと思い込んだり、
あるいは、それがバランスとして増えるはずだと思ってしまう。

その結果、実につまらない、たったの一階ほどしか移動していない階層に
ひっかかってしまい、
あなたはせっかくのチャンスを台無しにする。

●人間、ことに誰ということや、地球の人達がそうである
ということではなくて、
経験不足の無知から来る癖として、
多くの人達は、じっとしているということが出来ない。

そして、結果はすぐに自分に起きるべきだと思い込んでいる。
また、物事は、両極のバランスを整えるべきだという
ある意味では、正しくある意味では間違った固定観念を持っている。

●しかし実際には、
本当に、意識の「長距離の移動ともいえるもの」がそこにある場合には、
その移動の最中にあるものは、
長い無為または、長い無変化に見えるものなのである。

この無変化やエレベーターの中に何分も閉じ込めれているような感覚に
99%近い人達は耐えることが出来ない。
だから、彼らはエレベーターが移動したその直後に、
停止ボタンを押して、すぐ上の階で降りてしまう。

しかしすでに言ったように、
本当に何か、特に人間の意識が移動を開始している最中には、
情報は減り、関心は減り、動きは減り、結果も見えず、
ただ、あなたは、エレベーターやトンネルの中で、
じっと落ち着いていなければならない。

残念ながら、よほど物事の原則を経験的に知っている人にしか
これは出来ないのであるが、
もしもそれが出来る人がいるならば、
その人は、不毛に思えるほど長い時間感覚の経過ののち、
エレベーターが停止したときには、
飛躍的な移動がなされたことを知るだろう。

しかし多くの人は、エレベーターの中の沈黙や静寂と無変化に
慌ててしまう。
または、物事には両極があるべきだという間違った固定観念が邪魔をしてしまい、
失われる分の見返りの新しいものを、無自覚に探してしまい、
その結果、自分を大して飛躍させないような階で降りてしまう。

●これを、非常に分かりやすく喩えると、
失恋した人間ならば、一つの恋愛が終わったことぐらいは
どんな馬鹿な男女でも分かるだろう。

物事の「終わり」というものは馬鹿でも認識できる。
ところが、終わったらば、次があるべきだ、
次があるから前が終わったんだと思いたがる者が多すぎるせいで、
彼らは、次も大して変わりばえのしない相手を選択してしまうことになる。

恋愛というものを、この世界あるいは何か自分の主体とは異なる世界への
関心またはそこでの活動に喩えるならば、
終わりを「終わりのまま」に放置出来ずに、
次の始まりを性急に求めるために、何度も同じ失敗を繰り返す人達がほとんどである。

これと同じことを人生や宇宙を見る時にやってしまうと、
何十年でも何百年でも、本人が変化したりできていると思いこんでいるだけで、
全く何も変わっていないという現象が多くの人達の中にある。

●もうひとつのたとえである、意識の引越しに例えるならば、
実際に、ひとつの喩えとしてであって、
現実の引越しとは異なるが、
最もスリリングな「意識の引越し」というものは、

いったん前の家を出たあとに、
次の契約がないままに、ホームレスとなり、放浪の中で
次にたどり着くという方法である。

しかしそのときに性急に次を見つけようとしてはならない。
住家のない長い野宿生活がそこにあると覚悟するほうがいい。
あくまでも、これは意識におけるたとえであるが。

●さて、その移動中のエレベーターの中に
ある程度多くの人達が現在いるような状態にあるということに
気づいている人はほとんどいないようである。

●意識の世界の原則として、
大した変化でないものは、結果がすぐ見えるが、
本当に大きな変化が起きている場合には、
結果はほとんど見えることがなく、むしろ、不毛性がそこに長く
見えることだろう。

何かが終わる感覚は明確にするが、
その分何かが始るという感覚がないために、
それに対する、焦燥感から人々はそのエレベータを降りてしまうことが
多い。

●本当に大きな変化というものは、
決してそこに新しいものが立ち現れるという形の
変化には見えないのが原則である。

古いものは崩れてゆくか、または無関心になる。
しかし新しいものは何もやってこない。
この時が、本当に変化が起きているときに常に起きることである。

ただ、多くの人達は、それに対して絶対的な信頼をおけるほどに
そのような変化をあまり経験していないというだけの話で。

●ここで話は、世間的なことになりますが、
私は地球における肉体生活が過去数百年、あるいは数千年、
人間個人に提供してきた、いろいろな意味での価値は、
2007年にその役目を終えたと認識している。

これは私個人がそう思っているという側面だけではなく、
ある範囲では、共通の事実として認識している。

平成20年という年が、タロットでいうならば、
セパレートに当たるという点は、確実に既に結果が出ており、

地球上の全ての人間から現在、完全に失われつつあるものは、
「他者との関係性」である。

有象無象の異なる人格が接触することで情報流通が可能だったのは、
2007年までであり、2008年には、
たとえるならば、人は、実際には他者が存在しないような
分離された感覚の中に生きていることだろう。

その中で、変に「焦る人達」、あるいは固定観念の強い人達は、
未だに時代遅れに「つるむ」相手を探してしまうか、
接触が切れることにいらだって、犯罪などを犯すわけであるが、
不可抗力的に、人間の意志とは全く関係なく、
この「分離」は進行している。

●しかしだからといって、個人の自我が成熟できる方向がそこにあるか
という点では、それは皆無といってよい。
自我が生育できたのは、2007年までの話である。

多くの人々、ことに精神世界にかぶれている人達が
全く認識していないことのひとつは、
地球の管理方針というものは、数千年周期ではなくて、
もっと短いスパンで、「経営者の頭が摩り替わっている」という点。

いわゆる人間をやっているだけだと、
何も知らされないままに、会社の方針が全く変わっていることに気づかない。

だから、古臭い知識やら、古典の経典やらが効力があると思いこんで、
時代遅れのものに依存症を起している人達がほとんどである。

しかし、経営者側の最前線の状況は違う。
このギャップを埋めるものは今までほとんどなかった。
あっても、いいかげんきわまりないような霊媒情報だけ。

社長が入れ替わって、経営方針が変わっているのに、
何代も前の社長の時代に作られたマニュアルで良いと思いこんでいる人達、
それが、ほとんどの宗教信者、あるいは魔術信者の置かれた、
事実認識の誤認の状態である。

●その手の話はさておき、
人間というものは、変に余裕のあるときに、
よく言えばエゴが遊びたがる「道楽」、
悪く(つまり正しく)言えば、エゴが自分の存在価値を振り回して
子供っぽく有頂天になっている馬鹿をやる行為のひとつに、

カタストロフィーとかハルマゲドンとか、終末とか
そういった問題に片足を突っ込んで、そうしたことを
エゴが豚のように肥えるためのイベントにしてきた者たちがいる。

多くの新興宗教や、カルト教団がそうであったし、
今もそうだろう。特に2012年に変化を期待している馬鹿どもも
似たような幼稚な精神状態にある。


●世間で多くの人達が異変に対して実感を持っていないとき、
そのときにしか、彼らのエゴは活躍することは出来ない。
つまり「俺たちは知っているんだ。だから準備できるのも俺たちだけだ」
というエゴトリップが、いわゆる終末思想カルトの本質である。

いうなれば、本人が、冴えない人生を、だらだらと生きてきて、
本人としては、実際にはとっとと自殺でもしたかったような、
つまらない精神の者が、大騒ぎをするか、
または斜に構えて知ったかぶりをするためのただのイベント。

しかも、そのときに、世間では、そうしたものを
無視するという傾向があったからこそ、
彼らのコンプレックスは、優越感欲しさに、愚かな活躍をすることが
出来たのである。

●ところが、現在の地球の状況というものは、
突然の変化ではなく、じわじわと来る変化で、
しかも、商業的にはエコで金儲けはしていても、
改善の余地は「実際にはない」、そうした坂道を転がり落ちている感覚を
既に、世界中のほとんどの人々が意識的にであれ、
無意識的にであれ、確実にもっている。

これは、既に、異変や終末的状況認識が、一般化し、
しかもそれは一部の人間が馬鹿騒ぎをしていたような約10年前のような
エゴのイベント性もなく、
確実なカウントダウンであるために、
人々には、観念的な危機感で遊んでいる余裕はない。

●不思議というか、当然のこととして、
本当の変化の時とはそのようなものである。
実際には、そこには「気持悪さ」だけがあり、危機感はない。

そしてこの、観念的ではない本当の変化時期というものは、
喪失感の方が大きく、その反対側にある「べき」と思い込んでいる
次の世界像は決してない。

これがそうそう簡単に出てきてしまう世界や体系というものは、
最初に述べた、エレベーターの階層移動が貧相であるといえる。

むしろ不毛性が長く続いてゆくときこそ、
そこでは、人知れずに大きな変化や移動が起きている。
移動中というのは、不活性で当たり前、
否、むしろ、極端なほど不活性でなければならないのである。

●こうした時期、皆さんがやるべきことがあるとしたらば、
それは「荷物まとめ」である。

具体的に言うならば、その荷物とは、死んで持っていけるものだけを
きちんと整理すること。

さらに具体的に言うならば、
その「荷物」とは、あなたが、この地球の生で、
何を報告事項として提出できるかということである。

むろんそれは借り物の知識などであってはならない。
どこかの他人が書いたような報告書や人生観など全く無意味である。

あなた個人が、結局のところ、人間をやって生きてどうだったのか、
地球にいて、何を(学んだという言い方を私はしない主義なので)
何を経験し、その結果、どうもう1人の自分にそれを報告するか、
その報告書を書きなさいということである。

私は、私個人の報告書として「宗教に汚染された地球人」を執筆したが、
あれはあくまでも、私個人の報告書である。

●そうではなく、個々の人達が、自分独自の生存経験に関する
結論を報告書にする作業。
せいぜいそれが、あなたが自分でも知らないうちに、
エレベーターに乗っているときに出来る唯一のことである。
それ以外は、下手に動いたり、結果を求めて騒ぐよりも、
何もしない方がマシである。

むろん、他者としゃべるのもやめたほうがよい。
生活に密着しないような新しい情報は、可能なかぎり、得ないほうが良い。
自分の過去全ての全部の経験を、
単なる愚痴や日記ではなくて、
明確に提出できる「報告書」として言葉に落としてまとめる作業と、
それ以外のものは、どんどん失われるに任せるという
腹の据わった状態でなければ、この機会を生かすことは出来ないだろう。


●話はさらに世間的な話になりますが、
日本での年間の自殺者の数は、3万人ではありません。
実際には、推定10万人を超えている。

3万人というのは、確実に自殺であると報告されているものだけであり、
司法解剖がされないままの原因不明の遺体、
自殺ではなくて事故や病死として処理されたもの、そして行方不明。

これらのうちに、相当数の自殺者が混じっていることから、
正確には、3万ではなく、10万あるいは11万人が一年間に自殺をしていると
私は推察している。
そしてこの現象に対する私の見解は、しごく当たり前のものである。

●私は、1997年にこのサイトを開いてから、
一貫して述べているように、自殺というものを、
他者が、その背中を押すべきではないが、ただし、止めてもならないと
いう認識である。

たとえ、それが、回避できたはずの借金苦であろうが、
思い込みの自殺だろうが、あるいは鬱自殺だろうが、
精神科の薬の副作用としての自殺だろうが、

絶対に自殺を止めてはならないし、また逆に、
自殺を促進してもならない。

どういう不純な動機であれ、どういう人生論上の動機であれ、
どういう中途半端な意志の結果であったにしも、
死ぬ意志を決定したという「必要最低限の自己責任」がそこにあるのであるから、
他人はそれに対して、余計なことはするな。

彼らの背中を押すな。しかし彼らの背中を引っ張って戻すな。
これが私の認識である。

●実際には、自殺者が増えるというのは、
私の知っているところの生物学な視界から見れば、
まったく正常な反応なのであるから。

自殺をして、後悔するか、それとも正しい選択であったのか、
それは、本人が死んだあとに知ることになることである。
私は必ずしも、彼らが何者かに死後に責められるとは認識していない。

地球上の非常に狭い価値観しかない宗教は、
政治的な理由や、人間性というくだらない理由から、
人々を脅して、強制的に、他者の労働や家計のために
働かせるために、あるいは他人の自由を奪ってまで生存させるために、
あるいは、信者から金を巻き上げるために、
自殺を「悪」としてきた。

しかし、私は全くそうは思っていない。
自殺に対する私のスタンスとは、
それを、良いとも悪いとも思ってない。

自殺をした者の中には、確かに「単なる敗者」もいる。
しかし、物事には常に反対極というものがあるのが原則である以上、
自殺者の中には、「勝者」も存在している。


いうなれば、自殺など、
それをしようがしまいが、大した問題ではない。

問題は、死んだあとに、その決定に対して、
自分が満足したり納得できるかどうかの正当理由があるかないかだけである。

まー、「夢物語」として聞いてほしいのだが、
この今の時代だから、真実を言うが、
私は、
「自殺をしても、全くお咎めなしの多くの人達」を知っている。

なぜならば、それは正当な移動手段として
大昔から、認められているからである。
リスクがないとは言えないが、
リスクが必ず伴ったりするというわけでもない。
しかし、これらのことは、科学的には何ひとつも証明できるものではない。

よって、自殺というものを宗教という非科学的なものが
それを悪とする根拠は何もなく、
また、科学もまた、自己選択で生物が自殺をするメカニズムを
悪であると断定できるようなデータも論文も何も存在しない。
この問題に対する善悪など、実は存在してはいない。

それが存在し続けられたのは、
それこそ単なる、人類がされていた、マインドコントロールによるものである。

実際には、それは、悪いことでも良いことでもありはしない。
単なる、「死のデザインの選択肢」に過ぎないのである。

よって、
誰もあなたを「止める権利」はないし、
また誰もあなたにそれを「推奨する権利」もないのである。
それを選択するのはあなた自身の意志、哲学、信念体系によるものである。

私から言えることは、
誰もあなたを裁いたりしないということである。

自殺して裁く者がもしもいるとしたら、
それは、「向こう側にいる、あなた自身」でしかない。
あなたが悔恨があれば、あなたがあなたを責めるだろう。

しかし納得のゆく理由での、考え抜いた自殺であるならば、
向こうの世界で裁くあなたは存在しない。

●ついでに、これも、「夢物語」として聞いていただければ結構なのだが、
私は過去生で、何度か自殺をした。

それは、わざとその事故で死ぬと分かっている中に入って死ぬことや、
自分の意志で、餓死する行為も含めて、そうした自殺を選択した。
また、時には、単に「クソ面白くない」という理由で、
誰からも命令されたり、頼まれたのでなく、自害したこともあった。

数千年とかの長い時間を生きていれば、
誰でも一度や二度、自殺はするものだ。
それこそ、「自殺したって、いいじゃない。だって、人間なんだから」
の世界である。

●しかし、私はただの一度も後悔をしたことはないし、
その自殺には、いろいろな意味も意義もあり、学ぶこともあった。

自殺が、結果として、その次の生を選択するのに、
とんずらする時期として的確であり、
移動する手段として、大成功であった事例もあった。

そうした記憶のある私から言わせれば、
自殺は普遍的に悪なのでもなく、普遍的に善なのでもない。
問題は、その動機、理由、自分がどこまで考えて意識的にそれをしたか、
だけである。

そうでなければ、
つまり、もしもあなたが、ロクに毎日の生存意味を考えずに、
意識的でもなく、今日と明日を生きているのであれば、

私に言わせれば、それは意識的で意志と思考をもって自殺した者たちよりも
はるかに劣る、ほとんど、生きてもない生を、引きずっている者にすぎない。

●自殺なんかする人間よりも、
他人から頼まれた仕事をしなかったり、
請け負った仕事を途中でほっぽり出すような怠惰な人間の方が、
よっぽど悪党の外道である。
少なくとも、私個人は経験上、そう認識している。

だから、この世でも、あの世でも、
唯一絶対的に物事を決定しているファクターは、
「行為の種類」ではない。

     自分で明確に意識化できている
     「動機」と「目的」とその「根拠」があるかないかだけ。

それを自分が明確にできているのかいないのか、
それによって、
私に言わせれば、
本当の意味での「向こう側の世界」での「罪と刑罰」が存在する。
そのとき、自分を裁くのは、あなた自身の後悔であることを
覚えておくことである。

つまり、誰があなたを裁く権限を持っているわけでもなく、
自分に嘘をついた者、自分で契約して決めたことに違反した者、
それこそが、裁かれるのである。

しかし、この地球は、そういう人間で溢れかえっている。
「自分自身に対する嘘つき」だらけである。


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★最後に、地球では、誰も知らないでろあうし、
また、誰も聞いたこともないであろう話をひとつ。

あなたは、自分で生を選択し、契約したのであるから、
そのゲームを終えるときの死も、あなたによって選択されている。

それは既に生の選択の契約の時点で、
あなたの死の選択もされている。

しかし正しく言うと、
それは、選ぶ肉体環境の事情によっては、生まれるときに、
既に、「死ぬ時期」が選択されていることもあれば、
もうひとつ、選択項目がある。
それは死の手段である。

99%の人々は、その契約書に、
肉体の死の手段の項目に、次の項目があったことを忘れているか
または無視している。
しかし私の記憶では、生の契約書の「死の手段の選択項目」にはこうあった。

1/病気また事故による「時間のかかる死」
2/「突然の事故死」または「突然の病死」
3/自殺

なぜか多くの人達は、1を選択していた。
たぶん、それは突然に命を奪われるよりも、死を自覚してから
死にたいと思ってのことだろう。

また近代では、医療が発達したことを知っているので、
昔よりも病気でも、あまり苦しまないで死ねると知っているせいも
あるようだ。

しかし中には、潔く死にたいといって2を選ぶ人達も「少なくない」。
しかし、どういうわけか3番目を選択する人が非常に少ない。
>実際には、選択項目として、「公認」されているにも関わらずである。

どうやら、その理由は、
長年、地球のカルト化した宗教洗脳の弊害で、
自殺は悪いことと教え込まれてしまったり、
または、自殺というのは、まるで人生の敗者のように固定観念があるので、
そのせいで、多くの人間が、死の選択項目で、自殺を選ばなかったようだ。

しかし、私はあるとき、好奇心から、最後を自殺と選択した。
すると、その結果、面白い自殺もあれば、クソ面白くもない自殺もあったが、
成功例や、その醍醐味の味を覚えために、
その次の生も、死の項目は、
自殺による死を、続けて選択した時期があった。
(面白いので、しばらく、癖になったのである)

そのように、
生の契約書には、自然死以外に、自殺がきちんと公認された方法として
明記されていた。

これをもしも選択してここに生まれてきた者がいたとしたら、
その者は、自殺によって生を終わらせないことが、
むしろ契約違反となるのである。

この自殺という選択を、生まれる前に行う者は、
私が転生をして生きた時代には、
すでに書いたような、固定観念や人々が宗教やモラルから受けた
「洗脳」を理由として、かなり少なかったのだが、


・・・・・・・・・ここだけの話、

ここつい最近は、
前の生があまりにも悲惨だったので、
生の契約を選択する場合に、今まであまり人気のなかった、
「自殺による死で肉体生活の幕を閉じる」という項目を
生まれる前から、いざという時の心理的な苦痛の回避方法として
選択する人が「急増」している。

まー、前の生で、そんなに痛い目にあったのならば、
そもそも生まれなければいいと私は思うのだか、
いろいろな事情があったり、やり残したと後悔したことがあって、
彼らは、またここへ生まれてくるようである。

しかし、最近、死後の世界で、過去の時代と違うこと、
否、もっといえば「流行っている事」といえば、
それが、生まれる前の契約書で、
自殺を選択する人が増えたということである。

今まで全く人気がなく、むしろ、
何か、人生の最期にしては、カッコ悪そうだからという理由で、
今まで、敬遠されていた、「自殺でのゲーム終了」を選ぶ人たちが、
かなり増えているという事情。

◆さて、
ここで皆さんにも、しごく「現実的な問い」を、つきつけますので、
「独りきりになって」よく「自問自答」してください。
それを誰かに言うことは無意味です。
それを自問自答することが重要。

あなたが今回死んで、次の生を選択するとき、
その「死の手段」の項目のどれを選びますか?

1/病気また事故による「時間のかかる死」
2/「突然の事故死」または「突然の病死」
3/自殺

●そもそも自分で生を選んでいるのですから、
 死も自分で、そのデザインを選んでください。

今から「次の生」を計画するのは結構ですが、
物事のバランスの原則として、
>同時に、今から「次の死」も、あなたは計画すべきです。

●最近、日本の自殺者が、推定で10万人を超えているっていっても、
それは、私に言わせれば、当たり前すぎる「当然」の結果です。
そもそも、彼らは、生まれる前から、
その生を終わる時の死の形を「自己選択」しているのですから。

だから、他人がどうこう言うことではなくて、
本人が、自分が死のデザインをしてきた結果自殺するのか、
そうではなくて、契約違反で自殺しようとしているのか、
そういう「個人的な問題」は、
他人に頼らずに、自分でよく考えなさい、ということである。

そして結論が出たら、自分のしてきた「契約内容」に違反しないように、
生きるなり、死ぬなりすれば良いだけである。

ただし、死ぬにも生きるにも「正しい時期」「正しいタイミング」
というものはあります。
それもまた、いちいち、私や他人に聞かずに、
皆さんが、自分自身で、見極めることです。


自殺者は別に他者からは裁かれない。問題はその動機と根拠。
/無明庵掲示板 竹の間/鈴木崩残 著
 より転載


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Author:Nada
オカルト・陰謀論・不思議などに興味があります。主にD.アイク氏、無明庵EO氏などに影響を受けてます。
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